院長の独り言 106 ; 忘年会の幹事は大変だ!
『酒は飲んでも呑まれるな』とよく言われますが、残念ながら呑まれてしまう場合が多いようです…。
私の両親は結構、アルコール好きでした。
特に親父は酒に強く、かなり飲んでも酔って乱れるような事は無かったと記憶しています。
お袋もお酒の量は少ないなりに楽しんでいました。
その両親の子供ですから四人兄弟、お酒が弱いはずが有りません。
まだ両親が元気な頃、お正月、実家に皆が集合して一升瓶を何本も空にしていたのが懐かしくて堪りません。
石川家の酒にまつわる話となると、あまりに多いので枚挙に事欠かないのですが、今思い出しても冷や汗が出る経験もしています。
大学を卒業して臨床系の大学院生として入局したのですが、わが教室の伝統として、新人がその年の忘年会の幹事をやらなければならないのです。
常勤医局員は教授、助教授、講師、助手、大学院生など総勢で20余名、其の外、医局出身の他大学に所属している先生、開業医、勤務医など30余名、併せて50名程度の忘年会となります。
新人だった私が忘年会の幹事を仰せつかったのは、暮れも押し迫った12月の20日頃でした。
当時の助教授に一応相談しながら設定したのですが、まだ学生気分が抜けない私は軽いノリで、池袋の大衆酒場の2階で行う事にしてしまったのです。
当時、医局員全員が『金の無い集団』ですので、安い宴会場は大歓迎だったのですが、先輩の開業医の先生方は会場に入ってくるなり、どの先生も『何だ!この汚い宴会場は!!』、『一年に一回の医局の飲み会を楽しみにして来たのに馬鹿にしているのか!!』と大ブーイングになってしまったのです…。
挙句の果てに、『誰がこんな汚い所に決めたのだ!』と怒鳴りこむ先輩も出てきたのです。
会場は、二十畳程の座敷がふた部屋ぶち抜かれ、そこに細長い卓袱台が10脚程度、無造作に並べられていて、座布団がその下に置かれているのですが、其の座布団をよく見ると、どの座布団にも酒や汁をこぼした後のシミで汚れている始末です。
慌てて私が座布団を裏返して見ると、ビックリ仰天。
もっと汚く大きなシミの跡がついているのです。
おまけに運ばれてきた料理の刺身を見ると、色が黒ずんでいてとてもじゃないけど、生では気持ちが悪くて食べられそうもないのです。
お酒はと云うと二級酒で、燗をしなければ飲めない混ぜ物の薄い代物です。
自分はペーペーの新入医局員、そして忘年会設営の責任者でもあるのです。
幹事として教授に恥をかかせたのではないかと泣きたい気分でしたが、その時、教授が『戦争の時より全然ましだぞ!』と言った後、『このごろは贅沢になり過ぎているから、こんな忘年会も一回くらいいいのではないか…』と助け船を出して呉れたのです。
教授の鶴一声で会場の雰囲気が一変し、先輩の先生方も『戦時中の何も食べられなかった時よりはマシマシ』と、ドンチャン騒ぎに一変したのでした。
先輩後輩も関係なく、医局員も開業医、勤務医も区別なく酒を注いだり注がれたり、刺身は鍋に入れてグツグツ煮て食し、俄然、みなの話は盛り上がり、肩を組んで軍歌を歌い、時の経つのも忘れるほどの大盛り上がりの嘗てない忘年会になってしまったのです。
私にとっては、盛り上がっただけの忘年会ではなく、忘れ難い教訓になりましたが…。
シッチャカメッチャカのその忘年会のお蔭で、幹事で新人の私は、却って先輩の先生方に顔と名前を覚えられてしまい、可愛がられる事となり、後に学会などでバッタリと先輩にお会いした時など親しげに肩を叩かれて酒などをおごって貰ったりもしました。
どの先輩も『もう一度、あんなに和気あいあいの忘年会に出席したい…』と結構、本気で言ってくれましたが、私が医局に在籍中も、その後も、二度とあのようなドンチャン騒ぎの忘年会をした事は有りませんでした。
自分が開業してから出席した忘年会は有名なホテルばかりで、今となっては若気の至り、何も知らずに幹事をしたあの忘年会が忘れ難いのです。
あの時のわが恩師の鈴木賢策教授の嬉しそうな笑顔、当時の医局員の、そして、先輩の先生方の楽しそうな笑顔が今でも忘れ難い記憶として残っています。